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2006年07月25日

チャイコフスキー(作曲家シリーズ)

チャイコフスキー、といって、いきなりボリス・チャイコフスキーから始めたらさすがにスノッブで嫌味ですかね。でも『弦楽のためのシンフォニエッタ』とか好きなんですよ。最近知ったばかりで、まだまだCDを探している最中の作曲家ですが。

ピョートルの方は、最近トンと聴く機会が減ってしまいましたが、学生時代は熱中していました。「逆上型」の上昇音型で盛り上がる音楽が好きだったんですね。ラヴェルとかマーラーとかラフマニノフとかね。ベートーヴェンやブルックナーよりも。

チャイコフスキーの第5交響曲は、6番『悲愴』や4番に劣るとよく言われますが、私はこの手の意見には与しません。チャイコフスキー自身も「この曲にはどこか正直でないところがある」と言ったとか言わないとか伝わってますが。

5番の冒頭の主題は「運命」だといわれています。
個人的には、この曲は「運命に翻弄され、最後に打ち負かされてしまう自分」を描いているのだと捉えています。
第1楽章は運命の過酷さを描き、第2楽章は束の間の幸せが打ち砕かれるはかなさ、第3楽章は完全に幻のような逃避の世界、そして最後の第4楽章は運命の高らかな凱歌。大団円の4発のトゥッティは、ベートーヴェンの運命の動機“タタタタン!”です(これも同じ第5番なのは、多分偶然ではなく、チャイコが大先輩を意識したのではないかと)。ただしベートーヴェンとは逆に、作曲家を打ち負かした運命が、勝利を歌い上げているのですが。
なぜこう思ったかというと、チャイコではこういう曲の終わり方はかなり珍しいのです。交響曲だと、静かに終わる6番を除いて、長く引き伸ばす音で終わる曲ばかりなのです。そこで、これに何かあるのではないかと考え、ベートーヴェンに思い当たったという次第。

5番は第4楽章を普通に肯定的な内容と捉えると、どうにもバランスの悪い曲に思えますが、こういう逆説的な悲劇と見ることで、内容的に一本筋が通るのです。
仮にこの通りだとしてもあくまで逆説であり、確かに第6交響曲に比べるとわかりにくく、「正直でない」というのもわかります。5番を聴衆に理解されなかったチャイコフスキーが、改めて運命に対する敗北宣言として、一目瞭然の白旗を揚げ直したのが6番なのだと感じています。

根拠のない思い込みといわれそうですが(確かに根拠はないし、こういう解釈は他では見たことがない)、ムラヴィンスキーという大指揮者が、インタビューでこの5番について「この曲は単純な勝利ではない。一筋縄ではいかない」という趣旨のことを答えているのを見て、びっくりしたのを覚えています。やっぱりそう感じたのは自分だけではなかったのか、と。

今にして思えば、この破滅的な解釈は、当時の私の音楽の好みを端的に表しています。このあと私の心は、ショスタコーヴィチという音楽の深淵を覗く旅に出たまま、しばらく戻らない苦難の時期を迎えるのでした。まさに“クラシックは命がけ”で聴くものだったのです。

投稿者 clad : 2006年07月25日 23:15

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