2011年01月16日
【ツイートから】ドビュッシーについて、旋律について
ドビュッシーについて日ごろ思っていることを、たまたま連続してツイートする機会がありました。いざ文章にしてみると、漠然とした考えがまとまりますね。
まだ長文にまとめるようなものではないのですが、ツイッターとはいえ、文字にすると安心して忘れてしまうとも限らないので(苦笑)、備忘録的にまとめておきます。
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ドビュッシー「海」。サティが「11時45分頃が良かった」と言ったエピソードを間に受ける人がいる。あそこは派手に盛り上がるが、ロマン派の交響曲じゃあるまいし、本当の聴きどころはそこではない。勘違いしてる人が多いので一応コメント。
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聴いて欲しいのは第2楽章「波の戯れ」。波の細かい動きを表すように、短いフレーズが様々な楽器に浮かんでは消える。入りのタイミングを間違え易く、油断するとすぐ崩壊する。テンポの伸縮も大きい。崩壊しないだけではもちろんダメ。
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ドビュッシーのオーケストラ曲で、ポイントになるのは実はユニゾン。異なる楽器を重ねて音色を作る。楽器同士のバランスをどうするか、指揮者の感性が問われる。さらにはフレーズの途中でバランスを変え、音色をグラデーションのように変えるのが「わかってる」演奏。
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ドビュッシーの話をもう少しだけ。一般的に和声の人と思われてるけど、作曲家自身は「私の音楽は全てが旋律だ」と。この言葉の解釈がドビュッシー理解の鍵になるのではないか、というのが個人的な見解。歌曲で作曲を始めた人だから、旋律主体でも不思議はないが、そう聞こえるか、どう聴けばいいのか。
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ピアノ曲『水の反映』は「旋律らしい旋律がない」という人もいる。クラシックの基本は、旋律は単音の連鎖。そうだとすると確かに旋律にもならない短いフレーズが消えたり現れたりするだけ。しかし和音を一つの音ととらえ、和音の連続を全部合わせて旋律と捉えたらどうか。和音も一つの音色の表現と。
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なんで一連のドビュッシーに関するツイートをしたのかというと、デュトワ指揮N響の『海』がイマイチだった(なのに拍手喝采だった)からなんだよな。やればできる子のはずなのにやらなかった。ユニゾンのバランスまではとっても、途中でバランスを変える音色グラデーションを使わなかった。手抜きだ。
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『海』は確かに難しい曲と思う。今日も第3楽章で事故があったし、同じN響ではプラッソンの時も2楽章で危ないところがあった。CDでも、カンブルランのは危ないところを修正せずにそのままで出ている。あれを直さないでそのまま売るのはどうなんだろうか。
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ドビュッシーにおける旋律が、単音ではなく(音色表現としての)和音のつながりであると考えると、ウェーベルンとは似て非なる「音色旋律」という視点まではもうすぐと思う。ただ、この「ドビュッシー流の旋律」の定義に至るには、まだ論理の飛躍がある。ここはじっくり証拠を集めて追い込みたい。
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ドビュッシーはオケの中で、弦楽器のパートを、同じ曲の中でもところどころ4つや6つに分けて、例えばチェロならチェロに6つの和音を、ごく当たり前に弾かせている。あるいはガムランの音楽を「この対位法は我々のそれよりずっと凄い」といったり。「自分の音楽は全て旋律だ」この辺がヒントだろう。
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2010年05月14日
【ツイッター】つぶやきより。音楽に救われた思い出
カミングアウト。ブラームスの交響曲第1番。好きではないけれど、心揺さぶられて冷静には聴けない曲。ベートーヴェンの後継者として期待される重圧を、自分が子供の頃に親から受けたプレッシャーと重ねてしまう。恥ずかしい自己投影だが、避けられない(だから辛くなって好きではない、ともいえる)。
http://twitter.com/_CLAD/status/13836736398
ブラームスに自分を重ねたのは主に中学時代。高校から予備校時代は、親からの抑圧がさらにきつくなり、自己投影の対象がショスタコーヴィチに移っていった。出口のない、精神的な抑圧感。当時自殺しないで済んだのは、ブラームスやショスタコーヴィチのおかげかも。今にして思えば大げさではない。
http://twitter.com/_CLAD/status/13837061247
そして小学生の頃からずっと好きなドビュッシー。まさに、何ものにもとらわれない精神的な自由さの象徴であり、それに憧れていた(いる)のだと、今ならわかる。わかるようになるまで、随分遠回りした気がするが、わかるようになれたから、それでいい。わが子に同じ思いを味合わせないようにできれば。
http://twitter.com/_CLAD/status/13837061247
親からの呪縛は、一種のマインドコントロールだから、解けるのに時間がかかった。いろいろなトラウマに、過去の因縁を見つけるたびに心が痛む。未だに。
http://twitter.com/_CLAD/status/13837482863
(「どうやって親の呪縛を解くことができたんですか?」の問いに答えて)
もがき苦しみながら、一つ一つ過去の自分と向き合ったのです。心を血みどろにして。家族も巻き込んで傷つけたし、一時は親との関係を絶ちました。今は親とも和解して(というか、こちらが赦して)いますが、殺したいほど憎んだ時期もあり、それらを乗り越えて今に至ります…。
http://twitter.com/_CLAD/status/13839178769
過去の自分は現在の自分とつながっているが、違う。こだわってはダメだが、嫌っても仕方ない。過去の自分を懐かしく、慈しむことができれば、それで十分。今日を生きていくには。
http://twitter.com/_CLAD/status/13841899019
…本当は、ここに書かれたような内容について書き留めておこうと思ったのがこのブログを始めたきっかけでした。
自分の戦いの記録を残しておきたかったのです。それが、自分が生きた証であったかのように。
しかし、これを書くには相当のエネルギーが必要でした。その覚悟が定まらないまま、月日が流れていき、現在に至ります。
ツイッターを始めて、気軽なつぶやきの中に、ふと思いたって織り込んでいました。
もはや真剣に向き合ってまで過去の自分にこだわる必要性を感じなくなったのです。
もちろん、嫌ってもいない。
過去の自分は、その時々の状況に応じて、それなりに懸命に生きていたのですから。
よくやったね。ご苦労さん。おかげで今の私があるんだよ。
これ以上、陰々鬱々とした話を書き連ねる気にはなれないので、おしまいにします。
ブログ開設当初の目的はめでたく達成しました。
これでブログを閉じてもいいのですが、折角なのでもう少し続けてみようと思います。
140字に思いを凝縮しようとしても、どうしても語り足りないこともあるでしょうから。
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2009年12月21日
【トラウマ】失われざる記憶
昨晩、床に就いてから、しばらく考え事をしていました。どういう流れだったか忘れてしまいましたが、自分の幼年期に母親に仕向けられて受けた習い事の数々を、改めて思い起こしていました。
幼稚園時代のピアノ。小学校に上がって運動が苦手らしいとわかると体操。泳ぎが不得意と聞くと水泳…いずれもスパルタ式でした。
体操も水泳も、スパルタで有名な教室に通わされました。もちろん嫌でたまりませんでした。
それなりの年数を通ったはずですが、特に水泳には今だに苦手意識があります。教育としては失敗ですね。母親は軍人の家に育ち、学徒動員で戦闘機の工場で働いた戦中派です。スパルタ好きだったのかもしれません。
ピアノは歳の離れた音大出の従姉に習っていたのですが、これがまた厳しい教育でした。『のだめ・カンタービレ』で主人公が幼い頃、厳しいピアノ教師に拒否反応を示す場面がありましたが、観ていて胸に刺さる思いがしました。
運動と違って、ピアノは好きになりましたが、それは習うのをやめて何年も経ってから、改めて音楽の美しさに惹かれたためです。既に小学校の高学年になっていました。
それでもピアノと譜面への恐怖感はなかなか払拭できませんでした。音楽を心から愛しているのに、ピアノと譜面に触れると緊張して取り乱して何もできなくなってしまうという、悲しい状況が続きました。
自分としても不本意だったので、なんとか打開すべく、大学生の時に再びピアノを、それも同じ従姉に習うことにしました。その方がトラウマに直接向き合えるという思いもありました。
従姉は既に結婚して二人の子供もおり、以前とは全く違った穏やかなやり方で教えてくれました。無理してメカニックを練習しても大人には限界があるという諦めだけでなく、幼児期に私に厳しくしすぎて拒否反応を招いたことへの反省もあるようでした。
就職して地理的に通えなくなり、2年ほどでピアノの手習いは終わり、以来20年超が経過しました。今ではもうほとんど弾けません。
ピアノに向かっても、多少血圧や脈拍が上昇する気がしますが、怖気づくようなことはなくなりました。
ただ、譜面に関しては、もう少し症状が重かったのでした。
今でもなお、五線譜を前にすると、少しでも気を抜くと目が宙をさまよいます。正視することを無意識に避けるのです。
どうしてだろうと、以前から不思議でしたが、昨晩いきなり、幼児期のピアノの練習風景が脳裏に蘇りました。
先生(従姉)が、和音の書かれたカードを何枚か手に持っています。一枚を私の目の前に差し出し「これを弾いて!」と命じるのです。私はびくっとしながら、鍵盤を押します。
「違う! これは?!」別のカード。私はますます混乱して、適当なキーを押してしまいます。
「ぜんぜん違う! これはこうでしょ!!」彼女は自分で正しいキーを叩いたか、私の指をキーに押し付けたかはわかりません。痛みの感覚はぼんやりとして残っていません。見たことと聞いたことが再生されるだけでした。
とにかく私はパニックに陥り、頭の中が真っ白で、五線譜などとっくに目に入っていませんでした。
そこで記憶はぷつりと途切れ、また最初から再生が開始されました。従姉の掌中のカードから…。
昨晩、布団の中でこの光景を思い出すと、一気に動悸が激しくなり、眩暈がし、気分が悪くて眠るどころではなくなってしまいました。これは想像ではなく、現実にあったこと、意識の奥底に封印された記憶の断片だったのです。
幼い私にはとても嫌な、忘れてしまいたい想い出だったに違いありません。ただ、記憶というのは忘れたと思っても、単にアクセスする方法というか道筋を失うだけで、脳の記憶中枢からは消えていないという説があります。
昨晩、私は偶然にも、封印したと思っていた記憶の扉を開いてしまったようです。
今はもう落ち着いて記憶の内容を振り返ることが出来るので、こうして文章にすることも可能になりました。
いずれにしても、自分の「譜面アレルギー」の原因らしきものが見えたということを、前向きに捉えたいと思います。音楽好きである以上、このアレルギーは克服、あるいはそこまでいかなくとも、少なくとも上手に付き合えるような折り合いの付け方を、身につけておきたいのです。
そのほうが、多少なりとも音楽と自然に、楽に関わっていけると思うから。
ちっぽけですが、私にとっては重要な目標が、また一つ加わりました。
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2009年12月06日
【動画】うなりを上げるベルリン・フィル
最近すっかりTwitterにはまってしまい、ブログの更新がおろそかになっております。
もともと、長文で書かなければならないようなネタもそんなにしょっちゅうあるわけではなく、まあブログタイトルの趣旨に沿っているといえなくもないのですが(笑)。
そんなTwitterで流れていた情報から、評判の動画をご紹介。
ショスタコーヴィチの第4交響曲の、例の高速フーガが完璧に演奏されています。凄いの一言。
ほかにもいろいろとサンプラー的に動画が掲載されています。まだ全部は見切れていないので、これからゆっくり愉しませてもらいます。
こちらはドビュッシーの『海』。この曲には微妙に版の問題があるのですが、アバドの選んだものは珍しい。音盤では、これと同じ処理をしているのは私の知る限りパレー指揮デトロイト響の古い録音くらいです。
下のゲルギエフの演奏は、一番一般的なものです。違いは7分45秒~8分20秒あたり。
閑話休題。
このようにブランドとして強力な演奏家が積極的にネットを活用してマーケティングを始めると、中途半端な演奏家は苦しい立場に追い込まれるでしょうね。
このクラスになると、もはや巨大レコード会社とのコラボレーションも必要ではない。独自のルートで自主制作の音源を販売すればいいわけです。
一方で地域密着でやっていける演奏家は、それはそれでいいのですが、どっちつかずの人たちが一番困るでしょう。フランス・ロシア・チェコなど、お国モノだけでもそれなりにレパートリーがあるのなら、そこを勝負の土俵にすることができますが、たとえば日本のオケなんかはそれも難しい。
それでも日本はまだ国内マーケットが大きかったから、何とかなってきました。これから少子高齢化の影響が出てきて、マーケットは確実に縮小していきます。
今から(本当はもっと早くから)音楽を根付かせる活動を地道に続けていかないと、例えばオケだって既存の半数くらいになってしまうかもしれません。ローカルな音楽マーケットだけで活動していけるのは。
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2009年11月09日
【YouTube】ホロヴィッツのスクリアビン、ギレリスのラフマニノフ
こちらのブログに、ギレリスの【ヴォカリーズ】の映像がありました。
そこから、さらに好きな曲を見つけてしまい、再度探す手間を省くために(笑)、ここにリンクを貼っておくことにしました。
まずはホロヴィッツのスクリアビン、練習曲Op.8-12。独特の弾きっぷりですね。
ミスタッチなど何のその。雰囲気で押し切ってしまいます。
それともう1曲は、ギレリスの演奏で。
ラフマニノフの前奏曲Op.3-2です。こちらはすごい迫力。
本当はもう少し柔らかさも併せ持った演奏が好みなのですが、ここまでやられると脱帽です。
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2009年10月18日
【オペラ】メトのオペラ特集(NHK BSハイビジョン)
先週から風邪気味で、あまり体調が良くなかったこともあり、この週末はほとんど家にこもっていました。そのわりに音楽を聴いたりもせず、ひたすらベッドで寝ていたおかげか、風邪のほうは軽く済んだようです。
日曜の夜になって多少元気が出てきて、BDレコーダーに録りだめられていたオペラの整理などを始めたところ、先週はNHKのBSハイビジョンでメトロポリタン・オペラの特集をやっていたことを知りました(※)。
演目は『ボエーム』、『マノン・レスコー』の名作と、やや渋い『ピーター・グライムズ』。
歌手はさすがはメト、豪華絢爛。演出はいささか保守的なれど、舞台装置も豪華の一語です。
ただ、今回の特集番組の特徴は、むしろその構成にありました。
オペラの上演前や幕間に、大物歌手のルネ・フレミングとナタリー・デッセイが、歌手や指揮者、演出家や大道具の責任者などに対してインタビューする様子を挿入していくのです。『ピーター・グライムズ』についてはあまり馴染みのない演目のためか、作品成立の背景なども、英国の中継録画を交えて丁寧に解説していました。
さらに、準備が整ったところで舞台監督が指揮者に楽屋から出るキューを出したり、カーテンコールの時の一瞬の隙に歌手の汗を拭くメーク係の舞台の様子なども撮られていて、さわりしか観ていないけれども、とても興味深い番組でした。
BSデジタルを録画できるようになって、オペラを録画する件数が一気に増えました。画像が美しいのは当然として、その多くは5.1chのサラウンドで臨場感たっぷりに収録されています。今のところは観るほうが全く追いつかず、もっぱらディスクに移して保存しておくばかりですが、溜めておいたものを正月などの長期の休みに観るのが今から楽しみです。
※お任せ録画機能で勝手に取ってくれているので、こういうのは後から知るのです。
いちいち番組表とにらめっこするという無駄な時間を消費することがなくなり、快適なことこの上ないといったところです。ジャンルに【音楽-クラシック】、キーワードに【オペラ】【コンサート】【リサイタル】くらいを設定しておけば、まず録画を逃すことはありません。大変便利なものです。
ただ、NHKのサイトによると、『トリスタンとイゾルデ』も初日にやっていたらしいのですが、これは撮れていませんでした。何でだろう? まあ、最近はワーグナーだと重すぎて耐え切れないので、よほど面白い演出でもない限りは余り観る気もしないし、メトではそれは望めないから(笑)、いいといえばいいのですが。
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2009年09月07日
【ワルツ】気だるげに
やや疲れたような、場末感の漂う演奏でどうぞ。
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2009年06月17日
【音漏れ】朝のワーグナー
いつもの通勤電車。イヤホンからの音漏れはマナー違反には違いないとはいえ、別段珍しいことではありません。
ただ今朝のように、分厚いオーケストラの響きが朗々と高鳴ると、やはり気になるというものです。
紛うかたなき『トリスタンとイゾルデ』。おそらく前奏曲。
朝っぱらから、ステーキの如くヘビーなものを聴いているとは、一体どんな人だろうと辺りを見回すと、それと思ぼしき人は…すぐそばに眼を閉じて聴き入っている、美人だがやや化粧が厚めの“アラフォー”と見られる女性。
コンサートやオペラで、ブルックナーやワーグナーが演目の場合、聴衆の女性比率は明確に下がります。
なので、今朝の音漏れの元にたどり着いたときは、いささか意外でした。
漏れてくる曲がクラシックであることは珍しくはないのですが、ワーグナーだったりすると、聴き手は微妙にオタクっぽい男性、スーツ姿のサラリーマンを連想するのですよね(ブルックナーほどではありませんが。過去に間違いなくブルックナーと同定できた際は、いずれの音源(笑)も上記の通りでした)。
※そういえば、大学時代にワグネリアンでファンタジー小説専門の女流翻訳家にインタビューしたことがありました。あまり音楽自体には詳しい知識をお持ちの方ではありませんでしたが、あれは原稿を起こして、どこかの同人誌にでも載せたのだっけ…。よく覚えていません。
もっとも、前奏曲の後に続いて本編が始まったかどうかは、その前に乗り換える駅に着いたため不明なままです。
もしかすると“オーケストラ名曲集”の中の一曲として含まれていただけであって、さながら“ステーキサラダ”に含まれる肉片を食べていたところに、たまたま居合わせただけかも知れません。
いずれにしても、再び同一人物と乗り合わせて、同じように音漏れに気づくという確率は低く、真相は薮の中から出てくることはないでしょう。
いや、そんなに興味津々ってわけじゃないので、こちらも3日もすれば忘れていると思いますが。
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2009年05月30日
【音楽と五感】CLADの場合
前回の投稿で少し触れましたが、音楽に集中する際に聴覚以外の感覚が邪魔になることがあります。
私の場合、音楽に集中すると、聴覚以外の感覚が後退することが経験的に明らかです。
生演奏でも、オーディオでの再生であっても、音楽に一定以上に集中すると、視覚が利かなくなります。眼が見えなくなるわけではありませんが、目蓋を開いていても、何も見ていません。少なくとも、視覚情報は脳には到達しないか、届いても情報処理されず、捨てられてしまうようです。
聴覚より優位なはずの視覚ですらそうですから、他の感覚は言わずもがな。
昔、上野の文化会館でC・クライバーの指揮するブラームスの交響曲を聴いていたときの感覚は、私としてもいささか異常でした。触覚がなくなって、まるで椅子に座ったままの姿勢で中空に浮かんだような錯覚に陥っただけならいつも通りでしたが(一般的には十分変かも知れないけれど)、眼を見開いて舞台上をしっかり見ようとしていたからか、視覚は単純に失われたわけではありませんでした。その代わり、視野が狭搾して、舞台の上しか見えなくなってしまったのです。
このときは、クライバーの呼吸があまりにも深かったため、それと同調しているうちに酸欠状態になり、脳内で視覚を司る部位への酸素供給が不足したのかもしれません。
懐かしい昭和女子大学人見記念講堂で、パリ管弦楽団のコンサートでドビュッシーを聴いていた際の出来事も忘れられません。
例によって視覚情報オフ、触覚情報オフ、聴覚だけ全開で聴いておりました。嗅覚は、五感の中では比較劣位に位置するため、特に音楽を聴いている間には意識することはまずないのですが、唐突にバラか何かの香水のような、華やかな匂いを感じたのです。
近くのお客さんのつけていた香水だったのかもしれません。唐突に感じたのは、あるいはたまたま誰かが暑くて扇いだときに、実体としての香水の匂いが漂ってきたという可能性もあります。ただ、その匂いを感知したのはコンサートを通じてその一瞬だけでした。果たして本当に匂いを感じたのか、それとも一種の“幻匂”ともいうべき錯覚だったのか、いまだにわかりません。
五感のうち、味覚だけはここまで触れてきませんでした。これには理由があります。
特に大好きなドビュッシーの管弦楽作品を聴いているとき、私は音楽を舌で味わうような感覚を覚えることがよくあるのです。
ドビュッシーの管弦楽法は、けなす人もいるようですが、音色の異なる楽器でのユニゾン(同じ旋律を同時に演奏する)で独特の音色を作り出し、優れた和声感覚と相まって、独創的な音が鳴ることは間違いありません。この音が、とても好みに合うのでしょう。
逆に同時代のライヴァル、ラヴェルの管弦楽法は誰でも褒めますが、私もドビュッシーにない鮮烈さは感じるものの、舌での楽しみはドビュッシーでのそれに比べると明らかに限定的で、ささやかなものです。ラヴェルの管弦楽曲は、確かに個々の楽器の音が見事に“立って”おり、見事さに感心することが多いのですが、それでも楽器の音から想像できる範囲内の音ばかりという印象で、新たな発見には乏しい気がしています(ラヴェルの音楽自体、たまに聴くにはいいのですが、しょっちゅう聞くと飽きてしまいます。あまり相性が良くないのかもしれません)。私の中での印象は、ドビュッシーは音の発明家なのに対し、ラヴェルはあくまでも職人といったところです。
ラヴェルだけでなく、他の幾多の作曲家の作品に比べて、ドビュッシーの場合だけが突出して味覚を強く刺激されるようです。また、ピアノ曲でも室内楽でもそういう感覚は覚えますが、演奏の編成が大きいほど味覚への刺激が強まるのも確かです。
ドビュッシーについては、実演か録音の再生かによらず、演奏や音響が優れていればいるほど、この作曲家独自の音色を味わう際に、聴覚の範囲をはみ出して、まさに舌で味わっています。無意識のうちに音楽に合わせて舌が動いていたことが、これまでに何度もありました。
具体的に特定の食べ物の味がするわけではありませんが、確かにドビュッシーの音響を舌が喜びをもって感じているのです。
脳科学には詳しくないのですが、あるいは聴覚と味覚を支配する脳の部位が近くて、聴覚の感じる愉悦が味覚の領域にまで影響しているのかもしれません。
こういった音楽の感じ方は、果たして他の方にもあるものなのでしょうか。“共感覚”というのは一般的には音が色としてイメージされるといいますが、それとは明らかに違います(私の場合、聴覚が優位に立つと視覚はかなり遠慮がちに引っ込んでしまいます)。とはいえ、これも一種の共感覚なのかもしれません。仮にそうだとしても、「この音はこんな味」と具体的に感じ取れないのでは、大した共感覚者ではないのでしょう。
ともあれ、上記のようなわけですから、本気で音楽を楽しもうとしているとき、ワインを口に含んだりするのはその楽しみを邪魔することになりがちなのです。私以外の人も、そういう感じかたをするのかどうかは定かではないのですが、昨日の投稿にはそういった背景があるのでありました。
投稿者 clad : 14:00 | コメント (2) | トラックバック
2009年05月29日
【通販メール】ワインに合わせたい音楽?
エノテカというワインショップのネット通販で、セール商品を購入したことがあり、それ以来メールが毎日配信されてくるようになりました。
毎日というのはさすがにいささかウルサイのですが、いろんな銘柄や葡萄の品種に関する薀蓄も語られていて、それなりに読める内容なので停止はしていません。
先日のメールには、ちょいとネタになることが書かれていましたので紹介します。
「クリュッグやドン・ペリニョンと肩を並べる高品質シャンパーニュ「デュヴォー」」というものです。なんでも
「オーナーの意向によりそれぞれのシャンパーニュごとに“キーワード”や“シチュエーション”、さらには“合わせたい音楽”などがイメージされて」いるそうなのです…以下に例を引いてみましょう。
■DEVAUX GRANDE RESERVE BRUT
デュヴォー・グランド・レゼルヴ・ブリュット
発泡白 750ml \5,500(税込\5,775)
デュヴォーのスタンダード・クラス。
華やかでチャーミングな味わいとキレのある口当たりで
アペリティフや魚料理にオススメです。
<Keyword> 魅惑的
< Music > ベートーヴェンのシンフォニー
■D DE DEVAUX ULTRA
デー・ド・デュヴォー・ウルトラ
発泡白 750ml \9,000(税込\9,450)
Dシリーズはリザーブワインを35%以上ブレンドして
熟成されます。ミネラル感、ナッツ、熟した果実など
豊かな香りが特徴的。
<Keyword> チャーミング、一目惚れ
< Music > J.S.バッハの「ミサ曲(口短調)」、
ドビュッシーのプレリュード
■1996 DEVAUX CUVEE D MILLESIME
デュヴォー・キュヴェ・デー・ミレジム
発泡白 750ml \14,000(税込\14,700)
瓶詰の後、最低5年間の瓶内熟成が行われます。
きめ細かい泡立ちや芳醇な香り、リッチな味わいは
特別な日におすすめ。
<Keyword> 二人で、特別なディナーに
< Music > ラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」、
ドビュッシーの交響詩「海」
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ちょっとびっくりですよね。まさに突っ込みどころ満載。
まず眼がいくところでは、KeywordとMusicの関連性のなさ。ベートーヴェンのシンフォニーが「魅惑的」で、J.S.バッハの「ミサ曲(口短調)」が「チャーミング、一目惚れ」って…。
ラヴェルの「ダフニスとクロエ」や ドビュッシーの「海」が、「二人で、特別なディナー」の際に聴きたい音楽とは思えませんが?
ベートーヴェンがスタンダードクラスで、ラヴェルとドビュッシーが最高級か…というのはいくらなんでも野暮な突っ込みでしょうから控えますが、それにしても大編成の楽曲ばかりなのは、これを考えている人の好みなんでしょう。
クラシックでも、リラックスした室内楽とか、バロックの“ターフェルムジーク”などならともかく、ベートーヴェン以降の大編成の曲は、オペレッタなどは例外として、基本的にアルコールを嗜みながら聴くには全く向かないように思います。ただでさえダイナミクスの幅が大きいし、曲の構造も和声も複雑なら音色も多彩。音楽と正面から向き合わないと、失われるものが大きすぎるのではないでしょうか。
そのため、落ち着いて音楽と向き合える時間がとりにくい昨今の私は、ますます小編成の楽曲に志向が移っているのですが(※)。
そもそも、発泡性の飲み物は泡がはじける音が出ますから、音楽鑑賞のお供にはあまり適しませんしね。
そうなるといよいよ、これらのシャンパンと音楽の組み合わせは嗜好品として両立しがたく、下手をすればどちらも中途半端な味わい方に終わってしまう気がするのですが、そう考えるのは私だけでしょうか。
興味のある方は、こちらのリンク先をご覧ください。
※小編成だから音楽と向き合う必要がないという意味ではありません。ただ、小編成の音楽のほうが、それに相対したときに聴き手が必要とするエネルギーが少なくて済む場合が多い、という程度の意味です。
元気なときはもちろん集中して聴いたほうがずっといいに決まっていますが、疲れていればそれなりに聞き流すこともできます。聞き流しても、音楽の愉悦感が失われる度合いが、小編成のほうが比較的少ないように思うのです。
本当に疲れているときは、音楽を聴く気力すら湧きません。
2009年02月17日
茫々然タリ
そんなこんなで、ここ数日バイオリズムが底辺をさまよっているわけです。
コルンゴルトのバイオリンソナタのCDを聴こうとしていました。調子よく伴奏のピアノが鳴り始めます。
ところがイントロが妙に長い。いつまでたってもバイオリンが入って来ないのです。
「なんか、もう展開部に入ってるような??」
CDをよく見たら、バイオリンソナタでなくてピアノソナタだったというオチでした(^^;。そりゃバイオリンが出て来ないはずだよ(-_-;。
なんだかガックリきて、聴きながら寝てしまいました。どんな曲想だったかも朧気な記憶しかありません。
今朝は今朝で、腕時計を家に忘れてしまいました。仕方ないので、今日はケータイの時刻表示を見てしのぎます。
やれやれ…。
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2009年02月15日
港北のシェーンベルク
新聞の折り込みチラシに目を通していた妻が「これってどうよ?」と一枚差し出してきました。
ううむ…取り立てて表現主義的でもなければ、ドイツの伝統を意識しつつ未来志向とも見えない、何の変哲もない住宅に、このネーミングか?
一帯を『港北美しの丘』と名づけて開発しているらしいので、そこから安直に翻訳しただけ、というのが真相らしいですね。少なくとも音楽好きが企画に関与している様子は見られませんでした。物件自体にも、周辺環境の紹介にも、ウィーン風とかドイツ的とかいった要素は見られず。
マンションではないので、建ってしまえば残るのは無機質な番地だけで、家々が“シェーンベルク・ハウス”と呼ばれたりはしないだろうから、いいんですけどね。
それにしても、住宅としてあまりホスピタリティの良さそうな印象を受けないのは、私が抱く固有名詞の印象の方に引っ張られているからなんでしょうねぇ。
何の予備知識もない人が、純粋に語感だけをどう感じるのか、興味深いところです。
投稿者 clad : 00:05 | コメント (0) | トラックバック
2008年07月02日
本当はシエスタがいいんだけど
…というわけで(前日の続きで)、本日の午前中は疲労のため、ろくに頭が回らず、主に機械的な作業(経費清算とか、最低限のメールの返信とか)をこなしておりました。
午後の挽回を期して、昼休みはフランク・ブリッジの室内楽でリフレッシュだ!
2008年06月15日
録音録画補償金が欲しい人たち
私的録音録画補償金制度は、やっぱりいかがわしい。
以下の記事は、突くべきところを明快に突いてくれたという点で、もうほとんど決定版じゃないでしょうか。
本田雅一のAVTrends:補償金制度への「さらに大きくなった」疑問
もうね、はっきり言うべきなのですよ。今までもらってきたお金が減ってしまうと生活に困る。だからお金が欲しいんだと。
芸術は儲からないから、お金が要るんだと。
そういってもらえれば、よくわかる。クラシック好きですから、税金で芸術家を育て、支えることに何の疑問も躊躇いもないのです。
しかし、私的録音録画補償金制度は筋が悪い。
芸術の受け手を十把一からげに性悪説で捉え、一律に金を払えと要求するのですよ。
俺たちは被害者なんだという態度で、誰に対しても頭を下げずにお金をもらうための方便としか思えませんな。そして、お金は取りやすいところから取ると。
そろそろ新しい仕組みを考えなくちゃいけません。
繰り返しますがクラシック好きの私としては、単純に市場経済に従ってアーティストにしかるべき収入が分配されればよし、とは考えておりません。そんなことをすれば、どうなるか。
映画の世界で、シミュレーションができそうです。
単純に金が稼げるものが勝つのなら、くだらないハリウッド映画しか製作されなくなってしまう状況を招くだけです、ほかのローカルな映画産業が駆逐され、寡占が進んで。
そうなると、今度はハリウッド映画の衰退が始まるわけです。大作の続編ばかりが作られるようになる。
新ネタはリスクが多いので、どうしてもお金が集まらない。いまどきのハリウッド映画は、一本ごとにファンドの投資資金で製作されるらしいですからね。回収の見込みが立ちにくいものには、金もかけられないわけですな。確実に稼げるのはヒット作の続編なのです。目新しいネタが少なくなり、活力が失われる。
アメリカの音楽界も、なぜあんなにセリーヌ・ディオンもどきが多いのか。ハリウッドの大作の続編連発と、似たようなメカニズムが働いているんじゃないのか。
まあ、他のジャンルのことは、この際どうでもいいや。
クラシック音楽なんて、もともと音楽家が経済的に自立していた時代のほうが珍しくて、大抵は裕福なパトロンがいてどうにかやってきたわけですから。現代では、パトロンは政府だったり、企業だったり、芸術好きの富豪だったりしますね。
音楽のネット配信は販売や物流などのコストを劇的に下げるので、巨大音楽産業の寡占状態を破壊し、結果として多様な音楽の存在を保証するといった考え方もあるらしいですが、どんなもんでしょうか。
クラシックについては、大編成のものほどどうしたってコストはかかるし、オペラにしてもオーケストラにしても、特定少数の有名団体に人気が集中し、結局多くの団体が淘汰されてしまうでしょう、有力なパトロンがいなければね。それって、さっき書いた映画の状況と同じことなんじゃないのか。
演奏曲目だってそうで、ちょっと難しい曲や地味な曲はどんどん演奏機会が減って、ましてやゲンダイオンガクなんて書かれなくなり、お決まりのメンバーが演奏する決まりきった泰西名曲ばかり聴かされる羽目になり……。
…ダメだ、眠くて何を書いているのかわからなくなってきました。この問題は、もう少し頭を整理してから、また書くかもしれません(もう書かないかも)。
2008年05月24日
雨、酒、武満
沖縄方面が入梅したそうですが、関東でも蒸し暑さも感じるようになり、いかにも日本的な季節になって来ました。
雨の日は、外出さえしなければ、嫌いではありません。土の匂いが立ち上るから。
先日の台風のときのような、風の強い日はダメだけれど、今日はとてもいい。
ベランダに出て、酒をちびちびと。やはり日本の酒がいいと思うものの、日本酒は買い置きを飲みきっており、焼酎にしました。泡盛だと方向性が違います。こんなときには。
『波の盆』は、ドラマとしてはハワイが舞台なのだけれど、武満の音楽に横溢するウェットな感性が忘れられなくて、聴いてみることにしました。
雨音に混じってかすかに聞こえる程度にボリュームを絞ります。眼を閉じて、耳と鼻と舌、それと湿度を感じる皮膚の感覚を開放します。
視覚からの情報の洪水を暫し遮断するだけで、疲れがじんわりと溶けて流れ出していくのが感じられるのでした。雨に洗い流されるかのように。
カテゴリーのタイトルを変えようかと思っています。思いつめて、文字通り命がけで音楽を聴いていたのは、もう随分昔のことになってしまいましたから。
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2008年05月01日
ベルリン・地下鉄オペラ
ベルリンは壁崩壊の前後に訪れたことがあるのですが、崩壊前の地下鉄の不気味さは忘れがたいものがあります。
西側の地下鉄が、部分的に東側の地下を通過するのですが、分割前に使われていた駅がそのまま放置されており、明かりがうっすらと点いていて、さながら幽霊駅なのです。そこを地下鉄が通過する際、心なしか車内の照明が落とされた気がしました。乗客は無言でした。
崩壊後すぐに各駅の機能は復旧されたのですが、まだ崩れた壁のかけらをそこかしこの露店で記念品として売っているような時期だったからか、ろくに広告もない駅は殺風景で、とても大都会の真ん中に位置するとは思えない状態でした。
さすがに現在ではそんなこともないのでしょうが。
ベルリンは、ここ数年人口が減り続けているのだそうです。そのために地価も上がらないとか。
壁崩壊後は、欧州の中心になるという触れ込みで再開発がスタートしたはずなのですが。
それでも都心部に新駅はできるし、統一ドイツの首都機能は整備が続いているのですね。
しかし、オペラ上演中は地下鉄を止める、というわけにもいかないだろうし、騒音は上演の妨げにならないんでしょうか。
冒頭、タミーノは電車の車両と戦ったりするのかな?
こういう冒険が、東京でも試みられるといいんだけど、無理でしょうねぇ。いろんな意味で。
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2008年04月29日
しまった、アンスネスの…
…ドビュッシーのライヴを録り損ねた! うっかり忘れて寝てしまった…(4/26)。
と思ったら、別の局で放送してくれたので、なんとか録音できました(4/28)。収録日も会場も違うけど、仕方ありませんな。
ちなみにプロは多分まったく同じで、録れたのは2008年3月30日 Concertgebouw, Amsterdamでのライヴ。録れなかったのは4月15日 Bruxelles, Palais des Beaux-Artsって知らない場所。
さすがです。技巧は完璧。フレージングも自然。和音が美しい。響きがとてもクリアで、あいまいさがない。なんとなく雰囲気を出してみました、といったような古めかしいスタイルとは対極に位置する感じです。
切れがよく清潔感がある一方、昔のベロフのような、なんというかこれ見よがしのいやらしさのようなものは皆無。やはり技巧をひけらかすようなこともしないですね。
凡百のピアニストとは格の違う完成度の高さと、独りよがりにならないオリジナリティを両立させていると聴きました。
あとはできるだけ良い音質(できれば生)で接することができる日を、楽しみに待ちたいです。ピアノの音は、圧縮音源では少々つらいので…。
2008年04月19日
死の香りが鼻先をかすめて
用事で家を出る直前まで、レコーダーに録られていたザルツブルク音楽祭の『ドン·ジョヴァンニ』を観ていた。最後にレポレルロが主人を刺し殺すという演出だった。
観終わって再生を止めたら、教育テレビで放送されているピアノのレッスン番組が偶然に映った。
ヨーロッパの城の書斎かどこかで、ピアニストが明らかにネイティブではない英語で、日本人らしき生徒にレッスンをつけていた。
「…この曲は40歳を過ぎてから弾くべきだという人もいるが、私は17、8から弾き始めたことを誇りに思う。それだけ長いこと、いろいろな経験を積めるから…」
概ねそんなことを、ピアニストは語っていた。
曲は何だろう? 知りたくて出掛けられない。
ひとしきり語って、ピアニストが生徒を促す。曲はシューベルトの最後のソナタだった。
すぐにピアニストが制止し、ここはもっと悲痛に、と弾いてみせる。わずか一小節ほどでも、響きの深さが感じられる。
若い生徒も弾いてみるものの、全く悲痛にならない。たぶんろくに挫折もしたことのない、前途洋々たる若者の手には余る曲なのだ。
年季の入ったシューベルト弾きと思われたピアニストは、後でネットで調べたところ、やはりミシェル・ダルベルトだった。なぜかその名前が頭に浮かんでいたので、全く不思議には思わなかった。顔は知らなかったし、今日はほんの数秒しか聴いていないのに。
後ろ髪を引かれる思いで家を出る。
表通りで信号待ちをしていると、一台の小型トラックが通り過ぎて行った。どこにでもいる、ありふれたトラックの荷台を、何気なく目で追っていた。幌で覆われた中には、葬式に使われる花が積まれていた。
不意に、マーラーの第9交響曲が、無性に聴きたくなった。
2008年03月27日
入眠音楽
正月に再放送された“のだめカンタービレ”を観て(本放送では観なかった)以来、我が家ではにわかにクラシックブームが起きているのだが(爆)、その一環として、長女が寝床に入る際に音楽をかけることを所望するようになった。
ちなみに再生装置は私専用スペースのものを使っている。居間のメインシステムでも良いのだが、とにかく寝室ではなく、別室から聞こえてくるので、適当に音域も狭くなり、心地良く入眠できるのであろう。
最初のうちは“のだめ”由来の“ベト7”をリクエストしてきたが、さすがに入眠には不向きとわかったのか、曲目を指定してこなくなったため、こちらで適当に選曲するようになった。
いずれにせよ大編成の曲は不向きだろう。たまたま目についた、レーガーとシュトラウスのヴァイオリンソナタのCDをかけてみた。
そのまま寝付いたように思えたので、翌晩はトゥリーナのヴァイオリンソナタ集にしてみたが、翌日になって「ヴァイオリンはイマイチ。ピアノがいい」という。
それではということで、今度もたまたま目に入ったマリピエロのピアノ曲集をかけてやると、しばらくして長女が起き出してきて「聞こえない」とアンプのボリュームを上げていった。やがて曲調が激しくなってくると、再び来て「もうちょっと静かな曲にして」…。
仕方がないので、ハイドンの弦楽四重奏に替えてやると、今度は寝付くことができたようだった。
翌日の晩、寝しなの一言は「昨日みたいなのはやめてね!」。半分投げやりになりつつも、ショパンのノクターンをかける。
今度はさすがにクレームはつかなかった。これでダメなら、ゴールドベルク変奏曲のチェンバロ版でもかけてやるつもりだったのだが。
自分自身は子供の頃から、フォーレのレクイエムが苦手、というか得意?…とにかく最後まで聴き通せず、必ず気持良くなって途中で眠ってしまうというのが、お決まりのパターンだった。そんなこともなくなって久しいが。
現在、手持ちのCDで、途中で寝てしまう確率が高いものと言えば、ソラブジのピアノ曲"Le Jardin Parfume"だろうか。30分足らずの一曲だけで一枚になっているのだが、寝ないで聴き通せたことは3回に1回もない。
ただし曲名に反して、必ずしも夢見の良さそうな曲想でないのも確かだ。
いずれ、この曲も子供のためにかけることになるのだろうか。試して反応をみたいとも思う半面、変な冒険は慎めという声が聞こえるようでもあり。本当のところ、ちょっと揺れている。
2007年12月17日
その他、都響定期で思ったこと
ぶっちゃけ、一つ前のエントリーの補足なわけですが。
·とにかく、いろんな音が聴こえる解像度の高い演奏。文化会館で良かった。サントリーでは間接音が過多で、感銘が薄れたことだろう。
·しかし、久しぶりに行った文化会館大ホールがここまでデッドだったのは、実は意外だった。まるで出始めの頃のデジタル録音みたいな、ちょっとばかり無理矢理な鮮明さ。音楽と対峙するために来ていた頃と違って、もう少しゆったりと聴けるホールの方がありがたい、普通の演奏なら。東京圏ではタケミツメモリアルとかが良い。ミューザ川崎やすみだトリフォニーは、もうちょっと聴いてみないとわからない。良い大ホールはそのくらいしかない。どうでもいいけど(ホントはよくないけど)好みって変わるものですね。こないだまで、文化会館こそ東京で最良の音楽専用大ホールだと信じていたのに。
·日本のオケは指揮者の指示には大変忠実だが、自主性が足りないとよく言われる。そうかも知れないが、この日の都響くらい指揮者に食らいついていけるオケが世界にどれだけあるのだろうか。そう思うと、これはこれで一つの誇れる武器と言えるような気がする。
·演奏中、斜め後ろあたりから聞こえて来る「コチ、コチ、…」という音が気になった。どうやら腕時計の音のようだったが、果たしてそんなに大きな音のする腕時計があるのか。他の客は気にならなかったのか。初めての体験で、ちょっと疑問。
2007年12月16日
聴けたインバル 良かったインバル
白状すると、今までインバルの良い聴き手とはいえなかった。実演には何度も接していたし、CDも二桁枚数は聴いてきたので、これは巡り合わせが悪かったということだろうか。
細部にばかりこだわり、大きな流れとか感興を軽視する指揮者だという印象は、12月14日金曜日の都響定期演奏会でのマーラーの7番で、テーブルがひっくり返るようにものの見事に好転した。
インバルの作る音楽は、普通の演奏では埋もれがちな音型を浮かび上がらせるほかに、絶妙なテンポ・ルバートでくるくると変化する曲想を描き分ける点が特徴のようだ。音楽の起伏はその結果として表出され、感情のうねりは後からついてくる。少なくともマーラーにおいてはそういったアプローチがとられ、だからこそ7番という、マーラーの私小説的な色合いが最も薄い曲で、最良の成果を得られるのではないのだろうか。
いずれにしてもこれまで聴いてきたインバルの音楽は、彼の目指す理想形からはかけ離れた姿だったに相違ない。感興が不足していたというより、そこまでの完成度がなかったのだ。
もちろんマーラーのそれ以外の作品、あるいはその他の作曲家でも、聴き慣れた作品ほど面白く聴けるだろうけれど、その曲のベストの演奏と言えるかどうかは微妙だ。
勢いで、会場の文化会館ホワイエでフランクフルト放送響との同曲のCDを買ってしまった。コンサート会場で出演者の演奏曲目のCDを買うなんて、昔は初心者みたいで恥ずかしくてできなかったが、今はそんなチンケな見栄より自分に正直に行動できるので、随分楽になった。どうでもいいことだが。
ところが、後から聴いたCDのほうでは、どうもさほどのルバートが聴こえてこない。収録が20年ほど昔のことでもあり、もっと彫りの深い解釈に変わってきているとか、実演のほうが味付けが濃くなるとか、いくつか理由は考えられそうだ。
とにかく、インバルの棒の下、都響のパフォーマンスは尻上がりに高まっていった。最終楽章のスリリングな盛り上がりには、全く目を見張るものがあった。
インバルのやり方でそれなりの成果を期待するには、入念な準備を要するのは論を待たない。都響とも、本番で曲の後半にインバルらしさが集中的に現れたのは、練習時間の制約から前半に十分手が回らなかったとも推察される。
効率的な練習でそこそこのパフォーマンスが上げられる指揮者が重宝されるこの時代、インバルが貴重な存在に違いない。都響にはインバルとの縁を大切にして、おそらく長くはないこの指揮者の残りの音楽生活から、少しでも多くの実りを得ることを期待したいものだ。
14日については、殊に後半、アレだけインバルの指示に食らい付いていった都響の力は見事で、確かに賞賛に値する。ここまで自分の思い通りに音楽を作れれば、さぞインバルも幸せだろう、と思えるほどに。
しかし、今更インバルの美質に気付くなんて、周回遅れもいいところだよねぇ……まぁいいけど。まだやっと人生の折り返し点、自分は晩成型と思い込んでいるから。
2007年12月09日
CDキャップ制
我が家のCDの所持枚数は、15年前から1,000枚強のまま増えていない。これは収蔵スペースを一切拡張していないためだ。
実際には、紙ジャケットの省スペース盤が登場して以来、徐々に買い替えも進んでおり、実質的な枚数は増えているはずである。しかし、面倒くさくて正確な枚数をカウントしていないため、公式記録上は「所持枚数約1,000枚」のままとなっている。
当然、購入枚数は(これもカウントしていないし、する気もないが)当然その数倍にはなっているはずだ。そうなると必ず、買った分だけ収蔵場所からはみ出すことになる。そのはみ出した分は、きっちり売却しているのだ。
枚数の上限を決めた形となっているので、「CDキャップ制」である。
売却は大概ボーナス前の時期に行う。小遣いはボーナスからの年二回支給(?)という形をとっているので、ボーナス前の苦しい時期に小遣いを補うために、溜めておいた不要CDをまとめて売却することが多いのだ。
今年は別に小遣いが足りない状況にはなかったが、大体この時期にはCDが溜まってきて、そろそろ処分しないと保管場所にも困ることになるので、別の用件もあって吉祥寺まで出向いた際に、ディスクユニオンに持ち込んだ。
ディスクユニオンはクラシック専門の買い取りスペースで、かなり細かい査定をしてくれるので納得して売ることができる。
今回はそれでも枚数的にはやや少なく、109点の持込で、たまたま査定額20%アップのキャンペーン期間中だったこともあり、56,000円ほどになった。めぼしいところでは、ムラヴィンスキーのショスタコ8番の西独盤、国内ライナー&帯付きで2,400円。“アンゲルブレシュトの芸術”国内盤4枚組帯付きが5,520円など。
逆に、査定が100円以下のものも若干あった。毎回、そういうものは引き取って、レコファンあたりに持ち込み直したほうが得な気もするのだが、いざとなると面倒くさいというか、提示された金額に一瞬眼がくらむというか(^_^;)、結局実行したことはないのだった。
2007年11月29日
忘れてたぁ~
昨日は、都響の、会員に復帰して最初のコンサートだった…。
いきなりショック。
更に来月の予定を確認すると、なんと、妻の会社の忘年会当日ではないですか!
そう、インバルのマーラーの日です。ほとんどこの日のために会員になったようなものだったのに~。
もうね、何が何だか…。
2007年11月22日
合掌
突然のことで、言葉を失ってしまった。
http://homepage1.nifty.com/yurambo/
今はなき、Niftyのクラシック音楽フォーラム(FCLA)の代表的な書き手であり、オフ会で直接お話したこともある。日本には案外少ない、職人的な音楽家の中庸の美を正しく理解し、愛でることのできる人だった。初心者にもわかりやすい言葉で音楽への愛情を語っていたことも、忘れられない。
そして何よりも、FCLAから続いてMIXIでもお付き合いさせていただいていた、数少ない貴重な友人の一人だった。
同じ病で苦しんでいます、とは、ついに言えないままだったのだが。
過去形で述べなければならないとは…。
ご冥福をお祈りいたします。
2007年11月10日
一泊二日のシングル・ライフ
今日明日は妻子が旅行で不在である。長女の友達親子と一緒で、そちらも父親が不参加なので、遠慮した…というのは半ば口実で、羽を伸ばせる貴重な機会を得たわけだ。
そうはいっても100パーセントやりたい放題ではなくて、家族を送り出してからひと息つくと、午前中いっぱいマンションの避難訓練に参加した。今年は管理組合の理事なので、半ば強制参加だ。
午後はCDをかけながら、アンプの設計に時間を費やした。長男がいないと環境雑音が段違いに少なくなり、ダイナミックレンジの広いオーケストラものが楽しい。おかげでフロラン・シュミットを見直すことができた。
夕方にはもう一仕事、小学校の地区班の巡回パトロールをこなし、身支度して六本木方面のコンサートに出撃。オーケストラは某国営放送の盲腸オケにひどいものを聴かされて以来だから、ほぼ半年ぶりだ。
開演前に、演奏中に腹が鳴るのを予防すべくスープストックトウキョウへ。いきなりサムゲタンで舌を軽く火傷した(^_^;)。休日でリラックスしているってことさ、と心の中で負け惜しみを呟きつつ、入場。
サントリーホールは改装後初めてだが、ホワイエをいじったのかね? 肝心の大ホールの中身は、見たところどこが変わったのか不明。音響も、温かみのない取り澄ました感じがそのままだ。
スダーン指揮の東響は、一度聴いてみたかったコンビ。ようやくチャンスに恵まれたが、とてもいい印象を受けた。ハイドンの交響曲第9番はチェンバロ付き、ノンビブラートで、なかなかの力演。
イザベル・ファウストを迎えてのメンコンをはさんで後半、シューベルトのグレートがまた熱演だった。リズムにあわせて体が動き出しそうになるのを慌てて止めること数回。やはりこの曲は好きだなぁ。
ハイドン以外はビブラートも普通にかけており、解釈にも奇をてらったところはまったくないのだが、各主題の表情付けが巧みで描き分けがきっちりできており、展開部や再現部の入りが明確。どこにも無理がなく、合理的に流れていきながら、自然に感興が高まっていく。こういうのを古典的均整美というのか。オケも全体に危なげがなく、曲の途中でメンバーに笑みが浮かぶ。弾いていても楽しそうだ。こちらも十分楽しませてもらった。
この組み合わせでモーツァルトやベト7、シューマンなども聴いてみたくなった。
ノリノリの気分を保ったまま、電車を乗り継いでいくうちに、なんとなく自宅の最寄駅に降り立ってしまった。ここまで来ると食事を取るにも選択肢が少ない。ファミレスは最近行ったばかりなので嫌だし。
仕方がないので餃子の王将でニラレバ定食という、ガテン系な夕食をガッツリいく。今夜のアンプいじりに備えて体力をつけておく…というのは後付けの理由だ。野菜は摂れたが、当然カロリー過多である。出されたものはついつい残さず食べてしまうんだよね。
帰宅して、作業場にケクランの室内楽曲集のCDを持ち込み、準備は万端だ。作業を始める前に、ちょいとブログに書いてみた。さて、夜はこれからだ。
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2007年10月25日
うフフのブ(…)
ここ数年、室内楽や器楽独奏を聴く割合が徐々に高まっている。
年を追う毎に、音量の大小の変化の幅の大きい(いわゆる「ダイナミックレンジの広い」)音楽から、静かで落ち着いた音楽に好みが少しずつ移ってきているのは確かだ。真空管アンプを作るようになって、改めて楽器の音色を楽しむ聴き方に開眼したことも要因ではある。
最近のお気に入りは、フォーレ、フランク、ブラームスの、いずれも“フ”で始まるロマン派のトリオだ(もちろん偶然だが)。“トリオ”といっても、三重奏曲ではございません、念のため。
フォーレは晩年の室内楽をよく聴く。特にピアノ五重奏は、1番もいいが、2番はさらに素晴らしい。最初はつかみどころがない印象を持ったが、聴き込むほどに「幽玄」ともいうべき独特の世界にはまっていった。
CDとしてはユボーとヴィア・ノヴァ四重奏団のものをよく聴く。ヴィア・ノヴァは下手くそだという向きもあるらしいが、ユボーの滋味溢れる演奏と相まって、セピア色の霧が立ち込める、玄妙なる小空間が作り出されるように感じる。
フランクの弦楽四重奏曲もまた良い。さながら交響曲のような構えの大きさだが、もっぱら和音と転調の妙を堪能している。長い曲なので、これらをたっぷりと味わえるのも魅力だ。思いきり浸れるのである。
録音状態には不満があるが、パレナン四重奏団のCDが良い。フランクの作品はCDが手に入りにくいものが多く、この曲も他にはフィッツウィリアム四重奏団のものしか手元にないが、こちらの演奏はいささかシンフォニックな側面に偏り過ぎの感がある。シューベルトの弦楽五重奏曲などはとても面白く仕上がっているのだが。
フランクは、「前奏曲、○○と●●」という3曲セットのピアノのための組曲(うち1つはオルガン曲からの編曲)を3つ集めたディスクも愛聴している。

http://www.amazon.co.jp/dp/B00095L8YS
曲も大変渋いのだが、このピアニストがまた、聴く限りはなかなかの名手であったのに、日本ではほとんど知る人のない存在らしい。すでに鬼籍に入って9年というから、その名が広く知れ渡ることは最早ないだろう。(※追記あり)
知に溺れず、情に流れず、淡々と弾いているようでいて味わい深い。この人のバッハなども聴いてみたいものだ。
ブラームスについては、純粋に音楽について以外にも、いろいろと書きたいこともあるので、稿を改めたい。
※以下追記
…と書いたところ、ご指摘をいただいた。某雑誌上で一時期集中的に紹介され、徐々に日本でもその名が知られてきているようだ。音楽に関しては数年間の完全なブランクがあり、その間は時折輸入CDのアウトレットを買うくらいしか情報源がなかったので、こういった勘違いは結構あるかもしれない。この場を借りてお詫びと、ご指摘への感謝を申し上げたい。
しかし、こういった雑誌の情報はググっても一切引っかかってこないのだな。雑誌記事に取り上げた音盤タイトルとかの、テキスト情報をアップするだけでも(当然そんな情報は管理目的で作られているだろうし)、雑誌の販促の一助にはなりそうなもんだが、そういう考えは出版社サイドにはないんだろうか。
たとえばオンラインのCDショップとタイアップして、有料の会員とか得意客限定で雑誌の評価記事を読めるようにするなど、やりようはあると思うんだが。
以上、言い訳ではあるが、純粋に疑問。
2007年10月21日
シベリウスさんごめんなさい
FINLANDIAという、その名の通りフィンランドをはじめとする北欧音楽に強いレーベルから出ている、シベリウスの2枚組のCDを持っている。1枚目にピアノトリオと弦楽四重奏、ピアノ五重奏が1曲ずつ入っており、2枚目はピアノ曲集だ。
実は、これがシベリウスの室内楽とピアノ独奏曲の全集なのだと、なぜか今日まで信じていた。
収録されている変ホ長調の弦楽四重奏曲を、有名な『親密な声』だと思い込んでいて、名前が通っている割にはシンプルでさほど印象に残らない曲だ、むしろピアノ五重奏曲のほうが出来がいいな、などと思っていた。
…とんだ勘違いでした。
室内楽作品は数は多くないといっても、これの数倍はあるし、ピアノ曲にいたっては100曲くらいはあるらしい。
御見それいたしました。不勉強で申し訳ありません……そんな怖い顔で睨まないでください>シベリウスさん。
2007年06月29日
ドイツ音楽の明と暗
このご大層なタイトルでは、今度はどんな暴論を振り回す気かと誤解をされそうだが、実は単なる好き嫌いの話をお気楽に書き散らそうという、ほんのお目汚しに過ぎないことを最初に告白しておく。久しぶりの音楽ネタなので、ちょっとした遊び心で思わせぶりなタイトルをつけてみたまでです。ごめんなさい。
結論から先に書くと、外向的・発散系のドイツ音楽は苦手で、内向的・屈折系のそれは好き、ということに尽きる。
まずモーツァルトが苦手(ドイツじゃなくてオーストリアだろ、という突っ込みはナシでお願いします。以下同様)。一部のオペラをファルスとして楽しむ以外は、進んで聴こうと思うのはレクイエムくらい(※1)。
ベートーヴェンも、晩年の弦楽四重奏やピアノソナタを除くと、聴いていてイライラすることが多いので好きじゃない。基本的に、駆り立てられるのは嫌いなのだ。
※1)最近聴いた、アンスネスの独奏によるコンチェルトのライブは楽しめた。その理由はまさに丁々発止の掛け合いであったから。こんな演奏だったら、曲次第ではモーツァルトでもベートーヴェンでもいける。これがたおやかなウィーン風の(といわれる)モーツァルトだったら、退屈すること請け合いである。
ワーグナーとリヒャルト・シュトラウスは、どちらも饒舌すぎて性に合わない。黙っていれば美人なのに、そういう瞬間は滅多になく、四六時中喋りすぎて台無しになってしまっている、そんな人をイメージしてしまう。
それにどちらも厚化粧である。すっぴんで勝負しろとはこれっぽっちも思わないが、一見して薄化粧と思わせるようなのが本当に上手い化粧だと思うし、自分の好みというわけだ。
ワーグナーは『トリスタン』の前奏曲と「愛の死」だけで十分なのかもしれない。長い苦痛に耐えてこそのご褒美としてのカタルシス、という構造にはもう耐えられる気がしないのだ。シュトラウスは、クライバーの『ばらの騎士』の実演でも、結局ダメだったもんなぁ。『ばらの騎士』組曲だけで、もうおなか一杯だ。
好きなドイツ音楽はと聞かれると、バロック時代は大バッハとテレマンをかじったくらいの未開拓分野なので脇に置いて、シューベルト、シューマン、ブラームスにマーラーにレーガーの名前が挙がる。
シューベルトは自らの死を前にして、はかなくも美しい、現実逃避的な音楽を書いたし、シューマンは説明不要だろう。ブラームスなんて、ベートーヴェンの後継者と目されたという“物語”をきっかけに聴きはじめたようなものであるが、今ではそんな物語を抜きにしても大好物だ。尤もピアノ曲や室内楽については、フォーレのほうがブラームスよりも上をいっていると最近は思うけれど。
ドイツ音楽に話を戻すと、マーラーはその私小説的側面で言わずもがな(8番の交響曲はもっとも苦手としている)。レーガーの人となりは良く知らないが、紡がれた音楽はまさしく屈折系そのものといえる。
シェーンベルク一派の音楽は、内向的な面も多分に見られるものの、表現主義というのがいささか繊細さに欠けるように思われて、どうしても好きになれない。これは私の耳の限界でしょう。
ドイツ音楽以外ではどうかというと、ラテン系、スラヴ系の諸国の外向的な音楽は必ずしも嫌いではない。プッチーニとかも、わりと好んで聴くほうだ(ちょっと恥ずかしいけど)。
たしかにサン=サーンスは苦手だし、ラロやシャブリエは好きだがショーソンほどではない。でも、ドイツ音楽のようには、明確に「外向的なものは苦手」ということはないのである。なぜなのかは未解明だ。
自分の内面には、まだ探求の余地があると。
※※※ ※※※ ※※※
※※カテゴリーの名前のごとき、重いテーマのエントリーはなかなか書けません。もちろんいくつも暖めてはいるのですが、こればっかりは書くにもエネルギーが要るので、相当に溜めを作ってからでないと、テーマに負けてしまいます。もうしばらくのご猶予を。
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2007年01月06日
今聴いている曲(シューベルトのピアノソナタ第18番)
アファナシエフの弾くシューベルトのソナタは、以前21番も持っていたが、売ってしまった。
18番「幻想」は今日改めて聴いたが、これも遠からず売却する予定の棚に収まることとなった。
ピアニストの手になるライナーの一節「私は、これまでシューベルトについて5つのエッセイを書いているが、そのたびに最後のいくつかの作品の不気味さを、明らかに快活な面を犠牲にしてまで、強調したのである」…はこの演奏についてもそのまま当てはまる。
そんな演奏を聴いて、やはりうんざりしてしまう自分を確認した。そうまでわかりやすく弾かなくてもいいのだ。シューベルトの音楽は早すぎる晩年に近づくに従い、純粋さ、静謐さを際立たせていく。それをアファナシエフは「白い」と表現した。
およそ人間の生活する環境のうち、もっとも白いのは病室だ。もともと白のイメージは死と隣りあわせなのだ。
そしてシューベルトの白い、しかしまったくまぶしさのない音楽からは、あえてオブラートに包もうとしない限り、おのずと死の香りが立ち上ってくる。少なくともそういった優れた演奏を、私たちはいくつも知っているではないか。
シューベルトの、一切の輝きを伴わない「白さ」をたたえた音楽の不気味さ加減についての解説は、実はもう十分なのである。それは18番どころか、13番にすら聴き取れるのだ。演奏は、そう、アファナシエフの大先輩のリヒテルでいいだろう。
もし、本当に「白さ」を過剰なまでに押し付けられたら、人間は発狂するだろう。「2001年宇宙の旅」の最後の方に出てくる白い部屋(いささか明るすぎるが)に、ずっと閉じ込められることを想像してみるがいい。
漆黒の闇は、実は誰しもが慣れ親しんだ環境だ。眼を閉じればいつも(胎内のごとき)懐かしい闇が待っている。しかし、過剰なまでに白い世界は人間から一切の逃げ場を奪う。
人間の精神にとって、どちらが恐怖かは言うまでもない。
アファナシエフの奏でる音楽は、残念ながら狂気とは程遠い。彼に足りないものがわかったような気がする。
(mixiの自分の日記から転載・加筆しました)
2006年08月16日
今聴いている曲(マーラー第4交響曲)
4番は、マーラーの中では聴く機会は多くない。
好きだしよく聴くのは3番や7番なのだが(9番や大地の歌は重すぎて、聴く側にも気構えがいるので、曲は好きでもそんなに聴かない、聴けない)、嫌いだった8番が、一昨日聴いたとあるCDで気に入ったのをきっかけに、ちょっとマーラーづいているのだ。
聴いているのはライナー/シカゴ交響楽団のSACDである。
SACDは、最近機器を購入した。出始めて5年以上も興味が湧かなかったフォーマットだが、たまたまハイブリッド盤を中古CD屋で見つけて数枚持っていたのと、CDプレーヤの買い替え時期だった(実はとっくに過ぎていた。13年前の物で、一昨年メンテナンスに出したら「今度壊れたら修理できません」といわれたのだ)こともあり、いっそのことSACDプレーヤを導入することとした。買ったのはオークション、つまり中古なのだが。
実際聴いてみると、SACDは思いのほか良かった。
名前から連想するようなHiFiな感じよりも、むしろ自然な音がする。殊に余韻が消えていく感じがすばらしい。
CDだと「オーディオを聴いている」という感じが消えないのだが、SACDだといつの間にか音楽だけに気をとられてオーディオを忘れる。CDでも特に好きな盤ではそうなるが、SACDのほうがそうなりやすいのは確かだ。大半の盤でそうなるのだ。CDでは、せいぜい1%くらいの盤でしかなれない、とても幸せな状態に。
CDのほうがメリハリがつきやすいかもしれない。だからオーディオ的には派手だが、音楽に入り込みにくいのだ。SACDを聴いていると、昔のLPの音はこんなだったような気がする。LPからCDへの変化においては、便利さと引き換えに失ったものが、やはりあった。
ライナー/シカゴ交響楽団の録音は1958年。ほとんど半世紀前だ。ところどころ、金管の音が薄っぺらに聴こえることがあるが、全体としてなかなか具合が良い。
何より、オケが上手い。上手すぎる。このコンビでのロッシーニの序曲集やR・シュトラウスなどでも、あまりの上手さに聴くたびにため息が出る。それでいて、ショルティのときのようなメカニックな様相は呈することなく、むしろ内側に熱い血が流れている、しなやかさをも併せ持った筋肉美のようだ。シカゴの黄金時代は、やはりショルティよりもライナーの頃にあったのだ。
ちなみにこの両者の間に、短いながらマルティノン時代というのもあった。一般にはミスマッチとして評判が良くないが、実はマルティノンらしい切れの良さを聴かせる名盤がいくつか残されているようだ。これも楽しみである。
2006年07月25日
チャイコフスキー(作曲家シリーズ)
チャイコフスキー、といって、いきなりボリス・チャイコフスキーから始めたらさすがにスノッブで嫌味ですかね。でも『弦楽のためのシンフォニエッタ』とか好きなんですよ。最近知ったばかりで、まだまだCDを探している最中の作曲家ですが。
ピョートルの方は、最近トンと聴く機会が減ってしまいましたが、学生時代は熱中していました。「逆上型」の上昇音型で盛り上がる音楽が好きだったんですね。ラヴェルとかマーラーとかラフマニノフとかね。ベートーヴェンやブルックナーよりも。
チャイコフスキーの第5交響曲は、6番『悲愴』や4番に劣るとよく言われますが、私はこの手の意見には与しません。チャイコフスキー自身も「この曲にはどこか正直でないところがある」と言ったとか言わないとか伝わってますが。
5番の冒頭の主題は「運命」だといわれています。
個人的には、この曲は「運命に翻弄され、最後に打ち負かされてしまう自分」を描いているのだと捉えています。
第1楽章は運命の過酷さを描き、第2楽章は束の間の幸せが打ち砕かれるはかなさ、第3楽章は完全に幻のような逃避の世界、そして最後の第4楽章は運命の高らかな凱歌。大団円の4発のトゥッティは、ベートーヴェンの運命の動機“タタタタン!”です(これも同じ第5番なのは、多分偶然ではなく、チャイコが大先輩を意識したのではないかと)。ただしベートーヴェンとは逆に、作曲家を打ち負かした運命が、勝利を歌い上げているのですが。
なぜこう思ったかというと、チャイコではこういう曲の終わり方はかなり珍しいのです。交響曲だと、静かに終わる6番を除いて、長く引き伸ばす音で終わる曲ばかりなのです。そこで、これに何かあるのではないかと考え、ベートーヴェンに思い当たったという次第。
5番は第4楽章を普通に肯定的な内容と捉えると、どうにもバランスの悪い曲に思えますが、こういう逆説的な悲劇と見ることで、内容的に一本筋が通るのです。
仮にこの通りだとしてもあくまで逆説であり、確かに第6交響曲に比べるとわかりにくく、「正直でない」というのもわかります。5番を聴衆に理解されなかったチャイコフスキーが、改めて運命に対する敗北宣言として、一目瞭然の白旗を揚げ直したのが6番なのだと感じています。
根拠のない思い込みといわれそうですが(確かに根拠はないし、こういう解釈は他では見たことがない)、ムラヴィンスキーという大指揮者が、インタビューでこの5番について「この曲は単純な勝利ではない。一筋縄ではいかない」という趣旨のことを答えているのを見て、びっくりしたのを覚えています。やっぱりそう感じたのは自分だけではなかったのか、と。
今にして思えば、この破滅的な解釈は、当時の私の音楽の好みを端的に表しています。このあと私の心は、ショスタコーヴィチという音楽の深淵を覗く旅に出たまま、しばらく戻らない苦難の時期を迎えるのでした。まさに“クラシックは命がけ”で聴くものだったのです。
2006年06月19日
セヴラック(作曲家シリーズその6)
フランスの「田舎のいい匂いがする」と評された作曲家。
詩情に溢れたピアノの響きは、とてもかぐわしく、どこか懐かしい。
『セルダーニャ』を聴いてみてください。都会に住む私たちが確実に失ったものがあります。いくら手を伸ばしても、触れそうで触ることはできない。手が届きそうに見えて、決して手に入らないそれは、ノスタルジーを超えて甘い痛みすら感じさせます。
ジャン・ジョエル・バルビエというピアニストのアルバムが、その痛切さにおいて比肩するもののない出来栄えです。しかし、入手は難しいかもしれない。
セヴラックについては、どの盤も入手できるものはしておいたほうがいいでしょう。オルガン曲はともかく、歌曲はピアノ曲同様、慈しみ甲斐のあるものです。
記録では、オーケストラのための作品もあるようですが、聴く機会には未だ巡りあえません。
セヴラックという作曲家自身、私にとってはいくら手を伸ばしても届かない存在なのかもしれません。
セヴラック自身が「失われたもの」とならないために、少しでも多くの人にその存在を知って欲しいものです。
2006年06月11日
アレンスキー(作曲家シリーズその5)
アレンスキーはチャイコフスキーの次の世代にあたり、ロシア的な憂いを湛えた叙情が魅力的な作曲家です。
室内楽やピアノ協奏曲で知られる程度でしたが、最近ではオペラも録音されるなど、少しずつ光があたり始めたように思われます。以前からひいきにしていた人が注目を集めるようになるのは、もちろん嬉しいのですが、少し寂しいような気もしますね。自分だけのアイドルではなくなってしまったような。
最初にはまったのは交響曲第1番でした。まだ学生だった私は、何日もこの曲のフレーズで頭が一杯になり、食欲もなくなってしまったほどでした。こんな経験は、他にはサティの『ジムノペディ』をドビュッシーが編曲した管弦楽版を聴いたときくらいしかありません。ちなみに原曲のピアノ版ではこんなことはありませんでした。このあたり、私の音楽の好みを如実に反映している気がします。
交響曲第1番は、最終楽章がやや軽薄なロシア民謡お祭り騒ぎになってしまうのが残念ですが、第1、2楽章の夢見るようなフレーズが他に代えがたい魅力を放つ佳品です。
第2番もありますが、第1番のほうがすっと魅力的です。
アレンスキーで最も人口に膾炙しているのはボザールトリオの録音があるピアノトリオだったかもしれません。それ以外にも、ピアノを含む作品に筆の冴えが感じられます。
最後にとっておきの作品を2つ。
ピアノ独奏曲の『エレジー』Op36-16と、ピアノと管弦楽のための『ロシアの民謡の主題による幻想曲』Op48です(“Op”は作品番号の意)。ロシア的な哀感が存分に味わえます。一度聴いたら忘れられない響きの『エレジー』は、MIDIデータが公開されているのでお薦めしておきます。Niftyの旧FMIDICLA(MIDIフォーラム・クラシック)で公開されているAkihisa KANDAの作品です。
2006年06月08日
ラヴェル(作曲家シリーズその4)
ラヴェルは、昔より聴く機会が減ってしまった感があります。
飽きてしまったのかもしれません。
ドビュッシーは私にとって常に別格なのですが、たとえば弦楽四重奏曲は、当初はラヴェルのそれのほうが好きでした。
でも、次第にラヴェルの弦楽四重奏曲には飽いてしまった。逆にドビュッシーのは、緩徐楽章など、聴きなれたCDでも眼が潤んでくることさえあります。聴けば聴くほど好きになってくるのです。
ラヴェルのほうが完成度が高いとは思うけれど…。
ピアノ曲も、ラヴェルはどうも心に残りません。CDは棚にはあれど、一向に手が伸びない。オペラもそうですが、結局ラヴェルの曲にはドビュッシーと近いものを感じる分、ドビュッシーの同ジャンルの傑作と比べてしまって、やや落ちると感じてしまうからかもしれません。冷静に考えれば、ラヴェルの曲はどれも好きなほうに分類されるはずなのです、音楽として。
しかし『ボレロ』は嫌いです。あれはくだらない。
『ボレロ』のおかげで、ショスタコーヴィチの7番の交響曲などが二番煎じ扱いされ、不当に低く評価されています。『ボレロ』と似た作りなのはそれなりの意味があるし、そのこと自体は曲の全てでも最重要ポイントでもなんでもないのに。『ボレロ』は逆に、アイディアだけの曲です。どちらが偉大な作品かは論じるまでもない。
このように、ラヴェルと私はあまり相性が良くないようです。他の作曲家との関係性ばかり気になってしまうのですから。
ラヴェルで好きな曲は、『ラ・ヴァルス』『クープランの墓』『マ・メール・ロワ』がベスト3で、次点は『道化師の朝の歌』でしょうか。
中でも『ラ・ヴァルス』は圧倒的にすばらしいですね。
曲の冒頭は、「ウルトラQ」のオープニングのどろどろした液体を思い出します。あれが私の“カオス”のイメージです。そこから次第に三拍子のリズムが生まれてくる。タンパク質のどろどろした海からヒトの形をした何かが生まれ、三拍子で踊りだすのです。
雲間からまばゆい日差しが差し込むと、見る間に舞踏会場の幻が現れ、金と赤の色彩があたりを埋め尽くす。ヒトの形をした何かはいつの間にかタキシードに身を包み、白いドレスを着たパートナーと、くるりくるりと回りながら踊り続けている。
踊りは徐々に勢いを増し、ついには狂ったような激しさとなる。誰にも止めることはできない。とうとう激しさのあまり、ヒト形の何かはばったりと倒れ、事切れる……。
勝手なイメージですが、聴くたびに同じイメージが湧いてくるのです。
2006年06月04日
ミヤスコフスキー(作曲家シリーズその3)
ロシア音楽は昔から好きなのですが、ミヤスコフスキーという人に興味を持ったのはショスタコーヴィチの師匠にあたるからという理由でした。
当時はまだLPの時代で、旧ソ連のメロディアというレーベルの、質の悪いLPを買ってきては貧しい音で聴いていました。それしか音源がなかったからです。
CDの時代になり、インターネット通販も当たり前に使うようになって、マイナー作曲家のCDコレクションもずいぶんやりやすくなりましたが、それでもミヤスコの27曲ある交響曲のうち、26番だけは聴いたことがありません。
それでもあえて、この人の交響曲のベストは13番であると断言しましょう。25番や27番の出来から推察して、26番だけが飛びぬけて傑作とは考えにくいからです。
単一楽章の第13交響曲は、全編が圧倒的な緊張感に貫かれた傑作です。
ミヤスコはよく誤解されるのですが、ソ連の体制よりの「御用作曲家」と片付けることはできません。この13番交響曲などを聴けばすぐわかりますが、少なくともここでは大衆に迎合した作風は微塵も聞かれません。どなたにもぜひ一度聴いてみて欲しいですね。残念ながら、CDは入手しやすいとはいえないのですが。
心あるアマチュアオーケストラででも、取り上げてもらえないものでしょうか。ショスタコーヴィチの前座でもいいですから。
13番以外の交響曲は、初期のものはいいたいことが今ひとつはっきりしないのでお薦めしかねる曲が多いです。合唱もついたりして大規模な編成の6番は代表作扱いされることが多いのですが、正直言って疑問です。大規模な割りに、地味な曲なんですよね。
いいたいことが整理されて、ある意味聞きやすくなった11番はお薦めです。独特の内省的な緩徐楽章も美しく魅力的です。
最悪なのは18番。まるで焦点が定まらず、浮ついた作品になってしまっています。十月革命何周年だかの記念式典のために書かれたとかで、いかにも気乗りのしない表面だけのお祭り騒ぎを延々と繰り広げる駄作。
22番はとてもわかりやすく耳に馴染む、社会主義リアリズムのお手本のような曲ですが、派手な部分でも案外いやらしさがなくて素直に聴けるほか、緩徐楽章の深い憂愁は格別の味わいがあります。
交響曲以外だと、一番有名なチェロ協奏曲は、実はとても地味。瞑想的というか、何かと物思いに沈みがちなところはこの人の特徴が出ていますが、退屈な人には退屈でしょう。聴きやすい曲でもないし。
むしろヴァイオリン協奏曲のほうが、旋律の美しさで勝る分、とっつきやすいでしょう。ヴェンゲーロフの新しい録音があって入手もしやすいです。
ピアノソナタは1番から4番までは、だんだん作品の充実度が上がっていくのに、18番交響曲のようなどうしようもない駄作のソナチネをはさんで、5番以降は平易な作風で耳馴染みがいいというだけの、面白みのない作品ばかりになります。
弦楽四重奏曲は13曲もあって、ミヤスコとしては交響曲に次いで重要なジャンルなのですが、まだ全曲をじっくり聴き込むまでにいたっていないので、いつか改めてコメントしたいと思います。
しかし、ミヤスコの入手できるCDはほとんど持ってるかも…でも生演奏では一曲も、一回も聴いたことがない…。
2006年05月30日
シューベルト(作曲家シリーズその2)
シューベルトは、昔から交響曲“グレート”は好きでしたが、一気にはまったのはごく最近、わずかここ数年のことです。
きっかけはリヒテルのCDとの出会いでした。
たまたま買ったグリーグの“叙情小品集”が、ため息の出るほど良いものだったので、続いてシューベルトのピアノ・ソナタ13/14番を購入したのです。これがまた、実に見事なものでした。
シューベルトの晩年の作品は、死期を悟ったがごとき透明感に貫かれたものばかりです。後のものほどその傾向は強まり、最後のピアノ・ソナタ21番は、もうほとんどすべてを悟り尽くした感もあって、これと比べるとマーラーの交響曲第9番ですら見苦しく最後の悪あがきをしているように思えるほどです(マーラーはマーラーで、もちろん良いのだが)。
それはとてつもない優しさと、途方もない寂しさ。絶望した人間はここまでの境地に達することさえできるものなのか、ということを教えてくれます。
13番はそこまでには至っていないけれども、十分に優しくて繊細で、同じような息の長い歌に満ちています。まだ、生への望みが捨てられていない。
21番は見事な作品ではあるが、見事すぎるというか、その世界に触れるのはほどほどにしておかないと、こちらの身がもちません。それほどにシューベルトの絶望の淵は深い。日常的に気軽に接することはできないのです。たまに、精神的に落ち込んだときに聴くと、返って立ち直るきっかけになることはあるのですが(「自分はここまでひどい目にあってはいない」ということかもしれない)。
13番なら、それほど構えずに聴くことができ、心安らかにしてくれます。癒されるとはこういうことでしょう。
ほかに弦楽四重奏曲“死と乙女”も大好きな曲です。作品としては名前ほどおどろおどろしくはなく、暗い影は付きまとうものの、深い闇の底に吸い込まれる心配はありません。シューベルトらしい美しい歌心と、何かに突き動かされるような切迫感が強い印象を残します。
弦楽五重奏曲もすばらしい。フィッツウィリアムというすでに解散した弦楽四重奏団の演奏したCDしか持っていませんが、まるで交響曲のようなスケールの大きい独特の演奏です。ウィーン風といわれるおっとりゆったりした雰囲気は微塵もなく、全体的に荒っぽいけれども、結構気に入っています。こういった構えの大きな演奏で、もっと繊細さも併せ持つようなものはないでしょうか。
2006年05月27日
今聴いている曲(クロノスQuartetアフリカ小曲集)
クロノスQは昔結構はまっていて、来日コンサートも横浜まで聴きに行きました。当時住んでいた厚木から。
持っているCDでよく聴くのは、最も初期の“In Formation”と、ピアソラと組んだ“Five Tango Sensations”、そしてこの“Pieces of Africa”でしょう。その次が“Early Music”かな。
クロノスQのCDはどれも録音が優れているのも特長です。
レパートリーが変わっているし、エレキギターと競演したりするので異端視されるのかもしれませんが、実力はあるグループです。ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第8番の演奏などは、異常に乾いた音色が独特の緊張感を生み、なかなかの名演と思います。
“Five Tango Sensations”は愛聴するCDの一つ。もし手に入れる機会があったら、逃さずGetしておくことをお勧めします。最晩年のピアソラとともに、奏でられる哀感のなんと深いこと。
2006年05月25日
シベリウス(作曲家シリーズその1)
シベリウスが本格的に好きになったきっかけは、昔ヘルシンキ・フィルの来日公演をFM東京が生中継していて、それに触れたことでした。
番組テーマ曲だった交響曲第6番があまりにも美しくて気に入ったのです。
それまでは、有名な交響曲第2番などを聴いて、ふ~んと思っていただけでした(そんなに好きではなかった)。まあ、フィンランディアとかカレリア組曲などはそれなりに好きだったけれど、所詮それだけというか。
以来、一番のお気に入りはその第6交響曲。シベリウスとしては一番渋い交響曲だけど、虚心坦懐に聴けば良さがわかります。あまりにも透明で、純粋な叙情というものが聴こえます。
ほかに語るとすれば、第7交響曲かな。なかなか良さがわからなかった曲ですが、ムラヴィンスキーの有名なライブ録音を聴いて目が開けました。「雄渾」という言葉はこういう音楽にこそ当てはまるような気がしたのを覚えています。
もう一つ、「アンダンテ・フェスティヴォ」を忘れていました。これも弦のピュアな美しさと厳粛な響きだけで構成されたような曲です。第6交響曲とこれだけでも、シベリウスは僕にとってとても大事な作曲家です。幾多の人間をも含んだ、大きな意味での自然に、囲まれた自分。素直に自然の美しさをたたえ、感謝できる。いつ聴いても、そんな自分に戻れるのです。
2006年05月09日
いきなりバッハ
唐突に、バッハにはまりました。
きっかけは、無伴奏チェロ組曲のCDを買ったこと。
シュタルケルの男性的なチェロが、もうかっこいいのなんの。
同じCDをこんなに繰り返し聴くのは珍しいといわれてしまった。確かに。
その勢いで、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータも買ってしまいました。
こちらはシェリングの名演の誉れ高き演奏。格調高いのに、色気のようなものも感じます。
次は鍵盤ものですね。どこから攻めようかな。
※実はドビュッシーもバッハを崇拝していたって、ご存知でした?
2006年03月19日
今聴いている曲(バックス)
一番好きな、音楽について、まだ一度も書き込んでいませんでした。
音楽については、ついつい構えてしまって気楽に書けないのかもしれません。いつか書こうと思っているテーマも、結構重いものばかりだしね。
気楽にいかないと始められないと思い、『今聴いている曲』というテーマで書き始めることにしました。これならいつでも気軽に書ける。
今流れているのはArnold Baxのピアノソナタです。なんでも交響曲第1番の初稿だったものらしい。演奏時間30分を超える大作です。
CDの棚を見ると、バックスのものは結構たくさん持っていました。そんなに熱烈に支持しているというわけでもないのに、どうも気になる作曲家というか、この人の聴いたことのない曲だとついつい買ってしまう。
ドビュッシーに影響を受けていることは明白な響きの音楽ですが、「感性の人」だったはずのドビュッシーもバックスと比べるととても理知的というか、よく整理された音楽を書く人に思えます。
内省的なところはシベリウスにも通じるものがある気がします。ただ、シベリウスほどの緻密さはない。現代人に近い複雑な内面が、かなりストレートに出ているような音楽。それが深い川霧に覆われたような幻想的な響きを纏い、やや口ごもり気味に語りかけてくるがごとき風情。
バックス入門用には、実はピアノ曲はあまりおすすめではないようです。
7曲ある交響曲も、どれもあまり取っ付き易いとはいえないものばかり。
バイオリンソナタや、管楽器を含んだ室内楽曲から入るのがいいかと思います。
派手さはなく、聴き惚れるような旋律美もないけれど、陶然と耳を傾けると、心に静かに染み入ってくる…そんな経験ができるかもしれません。